蓮福寺

蓮福寺の紹介

歴 史

1603年、掛川城主の部屋家老を務めていた加藤惣助慰信宗(宗祐)が、出家得度して草創したお寺だと伝えられています。

征夷大将軍となった家康を、当時19歳だった掛川城主・松平定吉(さだよし)遠江守は浜名湖畔・今切の地まで出迎えました。一点の風塵もない快晴の日、舟中より鷹を射落としたところ、家康の怒りにふれ定吉公は詰腹を負うことになります。

20名の殉死者も出たこの事件で、主君と諸士たちは西南郷村久保にある「遠江塚」に葬られました。そのとき彼らの菩提を弔おうと出家得度したのが、蓮福寺の開基となる部屋付家老・加藤宗祐でした。加藤清正の従兄弟で朝鮮出兵の際には彼自身にも武勲があったようです。大久保彦左衛門の妹を側室に迎え入れたようです。

戦乱から泰平の世へ移る動乱の中で、虚しさを感じ武家の生活から身をひいたのかもしれません。慶長8年(1603年)、冬のことだったといいます。翌9年、東本願寺の初代・教如上人から寿像を賜って、東本願寺の末寺となったとされています。

定吉公の弟・松平定行が伊予松山へ封ぜられた際、掛川・蓮福寺一族から分かれて同行するものがあり、松山城下にも「蓮福寺」が創建されました。いまも存続する、浄土真宗本願寺派の寺院です。

上述のような掛川・蓮福寺開山の物語は、自坊では詳しく伝えるものが無かったようですが、明治後期に一人の来訪者によって伝えられました。松山市蓮福寺の住職加藤慶雲氏が、松山蓮福寺の過去帳を持って来訪し、当時の住職に伝えたようです。明治初旬にまとめられた松山藩史『松山叢談』の中に「蓮福寺譜」という項が記されたことで明らかとなったといいます。こうした経緯が、明治期の過去帳に記されています。

寺号の由来

当寺の遠江塚は、掛川城下から離れた水田地帯でした。周りは、蓮の花咲く沼地であったと思います。主君と20名の仲間の死を想い、蓮の花咲く姿に彼らの冥福を求めたのではないだろうか。

開基当初、蓮福寺は掛川城外堀の外側「南西郷」と呼ばれる地番に築かれました。現代でこそ駅前の街中であるが、当時はそこから南ははるか小笠山へと続く田園地帯。その中に、蓮の花咲く沼地が広がっていたようです。江戸後期の宝永年間に造られた手水鉢にも、蓮の花の彫りが施されています。

宗派と教え

親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗のお寺(=真宗大谷派・東本願寺)です。

他者との優劣、嫉妬の心から生じる憎悪、差別、不平不満に苦しむ私たち人間。そのすがたを憐れんで「必ず救う」と誓われた阿弥陀仏。その深い慈悲を感じ、そうした思いを信じて、念仏しながら「仏と成らせていただく」いのちを生きてゆく―。仲間とともに、自利利他円満の歩みを志していくのが、浄土真宗の門徒だと言われています。

阿弥陀さまを信じ、想いながら、このいのちで《往生》することができると良いですね。蓮福寺は、そう信じ合い、仲間を励まし合っていける場であればいいな、と願っています。

「浄土へ往生するということは、ここで生きていけるようになったということです。」(竹中智秀さんの言葉)

所在地

〒436-0078 静岡県掛川市肴町6
Tel. 0537-22-4034

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